2025-07-30 (Wed)

昨日・今日がこの夏の盛りかな。昼間の最高気温は 38 度台、帰宅時の室温は 35 度であった。なお、来週中頃から急に涼しくなるようで、最高気温 33 度くらいの予報になっている。

デスクトップ PC の壁紙を Paul Wilhelm Keller-Reutlingen の "Junge Gänsemagd auf einer Wiese""Sommeridyll am Bauernhof. Öl auf Leinwand" にした。ドイツの画家の作品だけど、Cambridge にもよく似た風景はあった。とりはこういうところに住みたい。日本からこのような風景が失われたのを心の底から悔やむ。

過去時制の助動詞「き」は、完了/存続アスペクトも表すか?

カードキャプターさくらの呪文「闇の力を秘め鍵よ」の鍵は、今も力を秘めているのだから、過去時制の助動詞「き」でなくて 完了/存続アスペクトの助動詞「たり」のほうが適切ではないかと以前に指摘したことがある。もちろん、漫画やアニメのセリフは「それっぽい」雰囲気を出すのが目的に過ぎないから、文法的に間違った表現を使うのもまた artistic license というべきであろう。あくまで、これをきっかけに考えてみたという話である。

そういう経験があった中、昨日たまたま、小説家になろうで多雨氏による「擬似古文でカッコいい呪文や誓約文を書く時の注意――過去と完了の助動詞について」という作品を見つけたので、興味深く読んだ。多くの例を引き、ファンタジー小説でありがちな文も作って解説した力作である。ここでは、「き」の連体形である「し」が名詞を修飾する場面において、「結果が確定しない場合」と「過去として規定されたため、現在は違うと見なされる場合」を注意している。例えば、「精霊たちに愛されし乙女」という表現は、今も愛されているか分からない、それどころか今は愛されていないという含意があるのではないかという指摘だ。これは私が違和感を覚えた「闇の力を秘めし」と同様のケースである。一方、「過去の出来事であり、その結果が消えずに定着するパターン」として「選ばれし者」「祝福されし者」、「過去に授受を済ませたものを示すパターン」として「受け継ぎし××」「賜りし××」などを「安全な表現」として紹介している。とりとしては、この説明には説得力を感じず、今はもう祝福が続いていないとか、今は受け継いだものを失っているという解釈も可能で、「愛されし乙女」と本質的な違いはないように思われた。「過去となった期間を示すパターン」として出ている「在りし日」や「若かりし頃」については、今と切り離して話題に出す用法だから不満はないのだけれど。なお、同じ属として例示されている「過ぎ去りし日々」は、過ぎ去った結果今はもうないという点でアスペクトの要素が入っている気がするが、それは「去る」の部分で表現されているとも理解できる。実際、「し」 + 名詞という用例を「竹取物語 (国民文庫版)」で探してみると、最後のあたりで「書きおきし文を讀みて聞かせけれど」とあり、「おく」という補助動詞によって動作結果の存続の意味が表されており、「し」は純粋に時制だけを表すと解釈できる。

ところで、手元にあった旺文社「古語辞典」(昭和 44 年改訂新版)を見ると、「動作・状態が完了して、その結果が存在している意を表す」という用法を挙げており、例として為忠集より「わが園の咲きし桜を見渡せば」を挙げている。手元にないので実物を確認できぬが、下に挙げた記事によると、同じく旺文社の「全訳・古語辞典」では、この用例に平安末期以降の用法とただし書きされているらしい。Mac OS X 付属の「スーパー大辞林」や、手元にある「広辞苑」では、この用法の記載はなかった。どうやら、平安時代中古日本語では「き」は純粋に過去時制の助動詞であったが、鎌倉時代以降の中世日本語へと時代が進んで時制・アスペクトの助動詞の混用が始まると、「き」は完了存続アスペクトの用法も持つようになったようだ。学校文法は中古日本語の文法を金科玉条のごとく教えるので、「き」は過去の助動詞と習い、完了の助動詞である「つ」「ぬ」「たり」「り」と明確に区別されるわけだけれど。これらの助動詞が「た」に集約した近世〜現代日本語の話者にとっては、英語の冠詞類の使い分けが難しいのと同様、平安人のような感覚で使い分けをすることは相当難しく、ぐちゃぐちゃになってしまったようだ。とはいえ、中古日本語文法から見れば誤りであるが、これだけ広く使われた用法を規範文法的に誤りと断定して批判してよいかどうかは高度に政治的な問題である。この件は、俳句や短歌を作る人にとって非常に contentious な話題であり、下の記事を見ても、いろいろな意見が見られる。また、上の多雨氏の作品もそうだが、中古日本語の文法に照らし合わせて議論しているのか、後の時代の用法も含めて議論しているのかが不明瞭な論説も散見された。

残念ながら、21 世紀の現在にあえて文語文法で作文しようとする人のほとんどは短歌か俳句のためである。そのため、議論も例文も大半が韻文についてであって、散文についての情報はたいへん乏しい。自分がいざ文語文を書こうとする時に、参考にこそなれ、答えは得られぬことが多い。例えば、「先人も ◯◯ と言っていたのを知った」といいたいとき、直感的に「昔人も◯◯と言へるを知れり」などと書いてしまうが、(1)「言った結果が今も残っている」ということで存続の「る」でいいのか、(2) 発言をしたその一点を指して「言ひしを」がよいのか、また主節についても (a) 自分が知って今もその知識があるという存続のアスペクトで「り」でよいのか、(b) 知ろうとした能動的行為の完了として「知りつ」なのか、(c) 何かの機会にたまたま知ることになったという消極的結果で「知り ぬ」なのか、悩ましい。なお、森鴎外の文語文は、助動詞の使い分けが必ずしも中古文法に従っているとはいえないが、文づかひでは「この末の姫の言葉にて知りぬ」、舞姫では「君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる」と「今気付いた・分かった」という状態変化に主眼がある文脈では「ぬ」を使っており、「東に還る今の我は〜浮世のうきふしをも知りたり」という状態描写では「たり」を使っている。

こういう用例を探すにしても、本当は源氏物語など長大なものも含めて、"「し」+ 名詞" といった文法構造で検索して列挙できたら 便利なのだが、そういう検索エンジンは整備されているのだろうか。UniDicMeCab を組み合わせて品詞分解する Web 茶まめ というものがあるので、これで分解した結果に対して検索すれば可能そうではある。「し」の前の動詞が動作性のものなのか、状態性のものなのかで分類してみるのも面白いのではと思った。

読んだ

見た