「学ぶべきことが多すぎて焦る」という質問を受けて

 先日、学部生から、学ぶべきことが多すぎて焦ってしまう・全部習得できる気がしないという相談を受けた。もちろん、試験に通って卒業するために覚えねばならぬことが多すぎるというのではない。ある学問分野を修めたい・憧れの誰かのような深い理解に達したいのに、必要な知識が多すぎて手に負えないという焦りのことである。見上げると高い山があって、そこまでどう登ったらよいのか見当がつかない、そもそも頂上にたどり着けるのかどうかも分からないという気持ちである。自分も学部生の頃、同じような気が急く感覚に悩まされていたなと思い出すとともに、そういう情熱を持つ学生が今もいることを嬉しく思った。

 この感覚をもっと身近な場合に当てはめて分析してみよう。例えば漫画やライトノベルには既刊 30 巻といった作品も少なくない。「とても最新話に追いつける気がしないから手を出すのはやめておこう」という判断をする人もいる。追いつける気がしないのは、既刊を揃えるのにお金がかかるし、読むのに時間がかかるからであろう。しかしこれは金銭的・時間的な、いわば資源の問題であって、その気になれば解決することができる。その上、コンテンツを提供する側も新規のファンを獲得しなければならないから、アニメ全話一週間無料とか一度だけ全話読み放題*1といったキャンペーンを時々行って、手軽に追いつける近道を用意したりする。したがって、どうしてもたどり着けないという絶望感はない。

 もっと似ているのは、そういう作品の古参ファンが原作を通して読んだくらいでは分からない蘊蓄*2を知り尽くしていることに対して感じる、嫉妬の混ざった絶望感だろう。古参の書いた解説*3を読んでなるほど面白いとは思うけれど、同時に自分はそれに気づかなかったということも突きつけられる。既に消えてしまったネットミームが参照されていて、今では確認しようがないこともある。古参ファンは書いていることの何倍も知識を持っているはずで、その水準にはいつまで経ってもたどり着けないという絶望感も覚える。

 私は高校生から学部生にかけて、有機化学美術館という面白い分子を紹介するサイト*4を愛読していて、新しいページが追加されるごとにその内容を楽しみつつ頭に入れていた。しかし、「ここに載るようなことを『全部』知るためには、どういう本を読んで勉強したらいいんだろう」とふと思い、そんな教科書も方法もないと気づいて絶望したことがある。私はその頃、有機化学や全合成や天然物化学の本を読み漁っていたので、掲載されたネタの中には既に知っているものもあったし、紹介された分子のもっと詳しい情報に他の本で巡り合ったこともある。しかし、サイトの著者が知っている化学知識の全部を習得することは、いくら本を読んでも不可能なのだ。著者のほうが何歳も年上だから経験豊富であるとか、自分が学ぶ間に著者はさらに前に進むといったこと以前に、著者の知識は著者のこれまでの学問人生すべての集大成であって、数冊の教科書どころか、数百の論文として参考文献を列挙してもらって読者が読破したところで複製できるようなものではないからだ。

 そのうえ、何かを知っていることと、それに自分で気づく能力があるかは別である。学問でしばしば重要になることは、一見別個に見える 2 つの概念に関係があると気づくことである。単なる事実の列挙に過ぎなかったものが共通の法則によって支配されていることに気づいたり、その気付きを利用して問題を解いたりできる。憧れの人がいろいろな問題を鮮やかに解いたり面白い関係性を紹介してくれるのを見て、解法や結果を覚えたとしても、そういった気づきに至る能力はやすやすとは習得できない。その習得方法は、知識の獲得法以上に曖昧である。お気に入りの作家の全作品を読んでも、せいぜい文体を真似するのが精一杯であって、同じ品質の小説を書けるようにはなるまい。

 残念ながら、他者の 10 年・20 年に渡る経験を複製することはできない。究極的に属人的なものである。その経験を追体験するのに時間がかかるからだけではなく、周囲の状況も変わっているからである。15 年前に流行したアニメを今はじめて見るのと、当時の流行の中で体験するのとでは、感じるものが違う。あちこちの Web サイトが考察や二次創作を書き散らしていた熱狂、あるいは深夜アニメのダンスが日本国内の文化祭で踊られたどころか外国の刑務所の運動にさえ使われたと聞いたときの奇妙な感覚を、今になって再現するのは難しい。

 それと同じで、憧れの人が A, B, C, D という経験や知識を持っているからとその真似をしても、同じ知識を身に着けて同じ経験をすることはできない。同じ教科書を使って勉強したとしても、自分が習得した A は A' という部分集合に化けていて、A ほど深い理解ではないかもしれない。2000 年代に Cambridge で留学したという経験 B を追って 2020 年代に Cambridge へ留学して経験 β を積んでも、両者には共通する点もあろうが、異なる点も多くあろう。英国の町は見かけこそあまり変わらないが、大学の制度や人は入れ替わる。大して興味もないが義理で出席したセミナーで聞いた話が記憶に積み重なって何かのひらめきに繋がることもある。そういう体験を逐一再現することは不可能だ。

 このため、憧れの人になることは決してできない。どう頑張っても、どう焦っても。

 しかし、この不可能性は必ずしも絶望を意味しない。憧れの人が A, B, C, D という経験や知識によって世界を見て、気づきを得て、問題を解くように、自分は A', β, E, F というそれとは異なった経験や背景に基づいて世界を見るようになっているはずである。そして、ふと、憧れの人とは異なる頂きに立っていることに気づくのである。そうなった時、どちらが上とか下ではなく対等な関係で学問に取り組めるようになり、焦りも絶望も消えるのである。憧れの人は依然として憧れの人のままであり、自分の知らない素敵なことをたくさん知って、興味深い経験を積み重ねている。けれども自分もまた、素敵なことをたくさん知っている。

 他人になろうとして、他人の知識や経験を嫉妬しても詮無きことである。一方で先達は、自分の経験や物の見方を文章にしておくことが後進に対する貢献になろう。文章によって経験を複製することは不可能であるが、何もないよりははるかにマシである。私がこの文章を書いているのもそういう一歩である*5。自分が学部生のときに感じた焦りは、20 年近くを経るうちに昇華され、もはや焦りではなくなった。その 20 年間の経験のうち何が焦りへの治療として効いたのか。少数の出来事というよりは、複数の経験の総合として考えが変わってきている。したがって、こう考えたら焦りが消えるという処方箋を書き下すことはできないのだけれど、こういう変化があったと記述しておくことが、誰かの役に立てば幸いである。

補足: 競技プログラミングとかゲームのように同じ基準の下で優越を競う分野の場合にどうなのか、自分はこれらに他人を嫉妬したり絶望するほど本気になって打ち込んだことがないから分からない。

  • 2023/1/4 夜: 公開
  • 2023/1/5 朝: 学問が進歩し人類の知識は増えているのに個人の寿命は伸びていないから、ひとつの学問を修めるのはますます時間的に難しくなるのではないかという意見を複数人からいただいた。それについては別記事で触れるつもりだが、さしあたって Twitter での返事を貼っておく。それから、ある学問を修めるためには○○を理解していなければならないといった考え方をしている人には、2013 年に書いた「○○も勉強すべきですか?」も推奨する。

*1:この戦略は少年ジャンプ+が有名。たとえばこのインタビューを参照。

*2:うんちく: トリビア

*3:昔は考察サイトだったが、今だとまとめ wiki とか動画のコメント欄なのかな。

*4:私が当時愛読していた本館は現在アクセス不能になっておりInternet Archive からしか読めない。ブログ版有機化学美術館・分館の更新は続いている。

*5:いろいろことをなるべく追体験可能にしておきたいという気持ちと open science については、また別の機会に書きたい。