世界が美しいとき

私の精神状態は、2週間程度の周期で変動する。ここに書くエッセイは、たいてい「悪い」状態の時に書いている。良い状態の時には、論文を読むとかプログラムを書くとか、もっと生産的なことに集中できるし、書く記事も技術的なメモになるからだ。

とはいえ、私にとって「世界が美しいとき」のことも書き残しておきたいと思った。普段、世界はパサパサとした味気ないもので、厭世的な気分を引き起こすような悪いニュースに満ちあふれている。ごく稀に、美しい時がやってきて、私はありとあらゆるものに感謝を捧げたい気分になる。私の人生最良のとき、すなわち学部の2,3年生の頃は、毎日、世界が美しかった。――いや、それは思い出の中で美化された結果であって、もちろん時には嫌なこともあって、泣いたりしたのだけれど、ベースラインは常にプラスであった。

今考えると、こういう「世界が美しい」時とは、一種の躁状態なのではないかとも思うのだが、まあよい、そういう時のことを述べよう。

世界が美しいとき、私は全能感に包まれている。「物事の背景を、なんでも知っている、今知らないことも、調べ方を知っている。時間さえかければ、なんでも学んで習得することができる」という自信と自己肯定感がある。

ノートパソコンに向かって、キーボードからこの原稿を入力している。そこで起こっている現象を考える。日本語入力エンジンとアプリケーションの相互作用。SCIM とか UIM のことを知っている。昔の kinput2 を思い出して懐かしく思う。かな漢字変換についての本を読んだことを思い出す。ブラウザ Firefox の前身、昔の Netscape Communicator 4.0 の出来があまりに酷かったことも微笑ましく思い出せる。HTML や CSSJavascript のことを知っていて、自由に書くことができる。PNG や GIF や JPEG ファイルのことも知っている。PNG や GIF は自分でデコーダを書いたこともある。JPEG はそこまでやったことがないけれど、だいたいの原理は知ってる。離散コサイン変換して高周波成分ほど「雑」に扱うわけだ。Firefox の内部のことも、多少は知っている。XUL アプリケーションを書いたこともある。XPCOM のこと。GUIアプリケーションのこと。Motif や GTK や Qt や WxWidgets のこと。Win32 でも OS X でも X11 でも、メッセージループや入れ子のウィンドウといった基本概念は同じだと把握している。プログラムがコンパイルされる仕組みを知っている。いろいろな構文解析器のこと、それぞれが処理できる文法のこと。最適化のいろいろな技法。バイナリを逆アセンブルして読んだ昔の経験。呼び出し規約のこと。アプリケーションと OS がどうやって情報をやりとりするのか。システムコールは昔 INT 命令で割り込んでいたけれど、今は SYSENTRY を使うということ。x86 アーキテクチャにおける「特権リング」という概念は、中二病的な響きがあって格好いいなと思う。これをネタに SF が書けないかな。OS の中身。そういえば、OS をフルスクラッチで書いた人もいるなあ。そのコードを見て、自分でもいじって遊んだことを思い出す。TCP や IP のパケットの構造を知っている。ルーティングの仕組み。物理層のこと。携帯電話のいろいろなデジタル変調のこと。CPU の基本的な原理も知っている。TTL ロジックで CPU を作る本も読んだなあ。半導体のことは詳しくないけれど、バンドギャップとかそのくらいは知っている。物性物理に出てくるブルリアン・ゾーンって言葉もカッコイイ。

#注: 最初はここまで記事を書いたところで、物性物理を復習したくなって、記事を書き続ける気がなくなってきた(集中困難・観念奔逸は躁状態の症状)。それでも、コンピュータ以外の例も上げるべきだと思って、植物と雲の例を挙げたところで、下書きに放り込んだ

窓の外に目をやる。いろいろな植物が生えている。私が自然に興味を持った一番最初のきっかけは、植物だった。植物形態学とかも勉強した。枝ぶりを見れば、どの枝が今年伸びたものなのか、だいたい分かる。葉で起こっている生化学反応のことを知っている。光合成の仕組み、Photosystem の構造の美しさに感動した思い出。構造解析の歴史。Mitchell による reaction center から始まって、XFEL による解析まで来た、植物ならではの二次代謝経路も好きだ。Arabidopsis 以外のゲノムももっと読んで、それぞれの代謝の違い、形態の違いを、分子レベルで誰か解明してほしいなと思う。

空の雲を見る。名前は知らないけれど、調べ方は知っている。地学には詳しくない。高層天気図を見て、天気予報をするといった本を読んだこともあるが、ほとんど全部忘れてしまった。昔から、どうも地学系は苦手だ。けれども、いつかはきちんと理解したいと思っている。

#注: それきり、コンピュータの段落を書いた時ほどの躁状態が戻って来ず(そういう調子のよい相は別のことに消費してしまい)、植物と雲の段落を、同じくらい膨らませることができなかった。

人間のことだけは、分からない。考えたくない。100年以上前の過去の人間のことは、興味の対象とすることができる。だが、「今」の人間のことには関わりたくない。