明晰な時間

持病のせいで、頭が澄んだ明晰な時間は週にわずかしか得られない。他の時間は、ゴチャゴチャしたものが頭を占拠していて、何も考えられない。

明晰な時間には、論文を読み、労を厭わず鉛筆を手にとって計算し、プログラムとして実装できる。試行錯誤も苦にならない。

それ以外の時間は、何もかもが億劫である。自罰的な気分である。矮小である。食事をとるだけでも、「自分はなぜこれを食べているのか。多少空腹を我慢すれば、一日2食でもすむのではないか」などと考えてしまい、自分の行動を肯定できない。アイデアは浮かばない。明晰な時間には、すばらしく感じて、試したくてウズウズしていた事柄も、どうでもよくなってしまう。失敗するかもしれないと感じると、面倒で手をつける気になれない。論文を読むことすら難しい。「これを読んで何になるんだ? 自分はこの分野の研究者ではないし」と思う。全ての行動にブレーキがかかる。面白いネタはないかなと、ネットを放浪して時間を浪費する。この状態にときには、何事も面白くないのは分かっているのに。そして、無意味に、非生産的に終わった時間に自己嫌悪を感じる。どうしてコツコツと、アイデアを進められないのか。

明晰な時間について書くはずが、不調な時の描写に終始してしまった。私は、「知ること」「理解すること」の快感で生きているので、明晰な時間以外は、まったく、なんのためにいるのかが分からない。

実際、今日は、午前中が空いていた。「明晰な時間」だった日曜日には、アイデアが3つほどあって、この時間を使って試そうと心待ちにしていたのに、そんな相は過ぎ去ってしまったから、結局、なにもせずに、はや11:30である。振り返れば、洗濯をして、この駄文を書き連ね、低分解能の精密化の練習をしただけである。精密化の練習と言えば聞こえがいいが、結局うまく行かなかったうえ、「そんなスキルを練習して何の意味がある」と自己嫌悪が増しただけであった。