精神不調

緒言

私は、ネット上でいわゆる「鬱発言」をするのを抑えてきた。筆が滑ってしまって書いてしまったこともあるが、あとで書かなければよかったと後悔した。だから、今、こんなものを書いて公開したところで、黒歴史を作るだけである。それなのになぜ書く決心をしたのかといえば、精神科医が「君は自分の感じていることをうまく言葉にして表現してくれるから、参考になる」と言ったからである。読んで、誰かの役に立つとしたら、それは喜ばしいことだ。あとで書くつもりだが、今の私は誰かの役に立つことに飢えている。――いや、本当か? 分からない。

中島敦の作品には「かめれおん日記」とか私小説的なものがいくつかあって、こういう精神状態の時に読むと、大変救われる気がする。気分がよい時には、とても読めないけれど。私が書いたものに、なんらかの文学的価値が生じるとは皆目思っていないが、それでも何かの役に立つかもしれない。

2014/1/2追記: 昨年11/28 に「書くわけ」という記事を書いた。

それから、#(全角のシャープ)という記号は、ここに何か書きたいことがあるという印である。書きたいことはあるがうまい言葉が思い浮かばなかったり、先に吐き出してしまいたい事柄があってそちらを優先するとき、プレースホルダとして打っておく。本来#がなくなってから公開すべきものだが、この調子だと「下書き記事」が増えてゆくばかりでちっとも公開できないから、未完成のままでも出してしまうことにした。構成が支離滅裂なのも、浮かぶままにキーを叩いていくからである。あとで並び替えたりもするが、うまく筋道をつけることができない。私は混乱している。時を見て、直していこうと思う。

あの日

私の精神状態は、2ないし3週間程度の周期で変動する。これを自覚したのはいつのことやら覚えていないが、学部の後半の頃だろうとは思う。とはいえ、病的なまでにひどくなることはなく、誰にでもある気分の波という程度だった。大学院の3年目、あのいろいろな出来事があって、振幅が大きくなっていった。周期が短くなって、数日のうちに変わるようになった。それまでは、普段なら楽しいはずのことがいつのまにか楽しくなくなっているとか、どうも考え方が悲観的であるといった具合に自覚されていた変化が、まるでスイッチを切り替えたかのように、突然、明確に、起こるようになってしまった。

決定的だった日のことは、よく覚えている。金曜日だった。いつものように登校して、Science誌の新着論文を確認した。面白そうな論文が2つあって、PDFファイルをダウンロードし、印刷した。そこまでは悪くなかった。むしろ論文の概要を見て「これはすばらしい研究だ」とワクワクしていた。ところが、印刷された論文を取りに居室を出て隣の部屋の複合機に向かうまでの間に、何かが起こった。印刷された論文を手に取ったときには、猛烈な罪悪感と否定感に押しつぶされていた。「この論文を印刷したところで、全部読まずに放り出してしまうかもしれない!」「この論文を読んだところで、自身の研究の何の足しになるのか! 資源の無駄ではないか!」

この変化に、私は大いに驚いた。ほんの数秒の間に、気分がここまで劇的に変化するとは。医学を学んだ者として、気分がセロトニンドパミンを始めとする diffuse transmitter によって規定されることを、知識として知っている。だが、それにしても…… この瞬間、これはいよいよマズイと思った。それで、具合が悪いので早退しますと言って、大学の保健診療所の神経科に駆け込んだ。それまで、臨床心理士に相談に行ったことは何度かあったが、精神科医にかかろうとまで思ったことはなかった。

###続きを書くべし。