機械論的生命観

先日、「コウガイビルのお食事風景」なる動画 http://www.youtube.com/watch?v=kY-kU7gEBuw を見た。こういう単純な神経系しか持たない生き物が、エサであるナメクジを的確に認識して行動を一変させる。どんな受容体でナメクジのどういう成分を認識しているのかとか考えると、一寸の虫にも五分の魂というのとはちょっと違うが、よくできているなぁと感じる。

机の脇のくずかごには、毎晩1つずつ食べるオレンジの皮が放りこんである。夏場なのですぐにカビが生えてくる。体調1mmくらいのショウジョウバエも寄ってくる。この小さな生き物たちの中で蛋白質がうごめている様を想像するととても愉快である。ATP合成酵素が回転し、ポリメラーゼがDNAの上を駆け抜ける。だが、いつまでも放置しておくわけにもいかない。数日もしたら、口を縛って捨ててしまう。哀れなるかな、精妙なる分子機械たちよ。汝らは焼却炉中の灰となるがために増殖したるか―などと詩人を真似てみたりもするが、本気で感傷的になったりはしない。雪が積もったり融けたりするのを見るように、単なる相変化だと感じている。

このような、あまり感情移入しなくてすむ生き物のほうが、私の機械論的生命観とうまくマッチして、想像力をかきたてられる。「ああ、こいつらも、物理・化学現象なのだなぁ」という感覚が気持ちいい。

脊椎動物は複雑すぎて、こういう視点で見るのはなかなか難しい。唯一、次のようなことがあったきりである。夏の間、下宿の玄関脇によくヤモリが張り付いている。近づくと素早く逃げてしまって触るどころではない。「ただいま」と心の中でつぶやくだけの片思いである。ところが11月も中旬になって、最近姿を見ないが冬眠したかなと思っていた矢先に、いつもの場所に張り付いているのを見つけた。近づいてもちっとも逃げない。はじめて指で触ることができた。そこまではいいが、ポトリと床に落ちてしまって、のそのそと這っていく。いつもの俊敏さは見る影もない。少し心配になったが、同時に、さすが変温動物、低温で動作クロックが低下しておると思った。酵母の増殖が培養温度を下げるとゆっくりになったりするのを見ても、こいつらは物理法則にしたがって動いてるのだと実感する。

ところで動物細胞を培養している時は、温度を下げても増殖速度が低下するだけではすまない。死滅してしまう。連中はいかにも脆弱である。もともと恒温動物の体内でよく恒常性のとれた組織液に浸かって安穏としているべき細胞を、分離して取り出して培養しているのだから当然である。当然ではあるが、私の好みではない。

目の前の人間も、社会も、そして自分自身も、単なる現象だと思えるようになりたい。そうすれば心の平穏が得られるだろう。

そうそう、今年もヤモリをいつもの場所で見かけた。確かなことは言えないが、おそらく昨秋と同じ個体である。無事に冬を越したようだ。単なる現象だと思いたい私と、「やあ、久しぶり」と声をかけたい自分が、矛盾しつつここにある。