論文の粒度が大きすぎでやってられない

最近、論文の粒度 granularity *1 が大きすぎると感じる。1つの論文に求められる情報量が多すぎて、書きにくい。やってられない。これが、私が研究者を目指すのをやめた理由の一つである。

そもそも論文は、科学の知識体系に何かを付け加えるために書くものだ。だから、「A は B である」という形をしている。これを主張するための根拠を述べるのが論文の本体である。100% 決定的な証拠を提出できればいいのだが、理論系の研究ならともかく、実験系の仕事ではそう上手くはいかないのが普通である。そこで、「A は B' である」「A は B" である」といった別の可能性を否定する実験を行って「やはり A は B である」という結論だけが残るように絞り込んでいく。

自分には、正直な話、上のような営みが面倒に感じられてしまう。好みの領域・手法があって、それを使うという行為そのものが楽しいのである。目的と手段が入れ替わっていると批判されるだろうが、何かを立証することにはあまり興味がないから仕方がない。ある解析を行って「A は B である可能性が高い」という結果を得る。だが、確定的ではない。論文にするには B' や B" の可能性を潰さなければならない。そのための実験系を考えるのも、実際に手を動かすのも、正直面倒でやりたくない。そういうことは誰か別の人が考えてやってくれればいい。「A は B である可能性が高い」という結果が出たら、ありのまま報告して、さっさと次に移りたいのだ。だから、最初から終わりまで通してやる研究者よりも、専門技術者として、自分の得意分野から研究の一部分をサポートするほうが向いている。

そもそも重要なのは、自分のやった仕事の限界点、つまり実験結果からどこまで主張できるのかを認識して、正直に報告することではないのか。科学的誠実さといっても良い。「A は B である可能性が高い。ただし B' や B" の可能性は残る」と discussion に書いて、終わりにすればいいではないか。「A は B だ」と断言したら論理の穴であり reject されても仕方がないが、やった範囲のことを素直に述べて、何が不足だというのか。しかし現実には、「B' や B" の可能性を否定してください」とか「B だけじゃ面白くないね。C まで示してよ」と要求されることは多い。

特に Nature や Science といった有名雑誌に載せるような研究には、インパクトが必要である。世界の誰も想定していなかったような仮説を立てて立証したり、皆が挑戦しては失敗してきたような難題を解決するとインパクトがある。こういう仕事は、文句なしでトップジャーナルに値する。一方、「A は B である。B は C である。C は D である。以上により、なんと A は D であった!」というような具合に、あれやこれやを積み重ねて、インパクトを稼ぐのもよくあるパターンである。「A は B である」「B は C だ」を1つ1つ小出しにすると大きなジャーナルは無理なのに、まとめると載ってしまうのだ。この作戦を狙う研究者は多いが、巻き込まれると大変である。各ステップを担当する関係者がどんどん増えていくので、筆頭筆者争いを始めとする政治的紛争が発生することも少なくない。分野によっては著者をアルファベット順で並べると聞くが、羨ましいことだ。私は研究者になることをやめたので、業績の IF なんて気にしない。小さい雑誌でいいからさっさと報告して片付けたい。極端な話、自分で論文を書くよりも、依頼主に頼まれた解析をして、結果を依頼主に報告して終わり。依頼主が論文執筆する際には、担当した範囲で協力する―というほうが性に合っている。

上は実験科学の場合だが、方法開発の場合も同じである。「新しい方法を考えてプログラムに実装しました」だけでは「それって本当に役に立つの?」と言われる。「こういうものができました」と報告するだけでも、同じことをやろうとしている人の参考になるし、有意義だと思うのだが。

今は IT 技術が発達しているので、昔ながらの論文の形態にまとめなくとも、もっと小さな単位で結果を公開することが増えてもよいように思う。図書館にこもって、紙の雑誌を目で検索していた時代とは違うのだ。細かいデータでも、検索可能な形でうまく提供できるはずだ。むろん、「こんな実験をしたらこうなった」というだけの報告を既存の研究との位置付けなく積み重ねていくだけのものは、狭い意味での「科学」とはいえないだろう。それでも、科学のタネになるデータを提供するという意味で意義はあると感じる。例えば、構造ゲノムプロジェクトで機能未知の蛋白質の構造を淡々と決定していくことに批判は多いが、私自身は肯定的である。

もちろん、何事も程度問題である。プログラムのモジュールと違って、粒度が小さすぎても結果の普遍性(再利用性)が低い。同時に、実験科学に完全な証明はありえないので、完璧主義を貫くといつまで経っても論文が出ないことになりかねない。そこで、バランス感覚、すなわち1つの論文に何を盛り込んで何を結論とするか「論文のストーリを考える」力が研究者には不可欠とされるが、私はそういうことにアタマを悩ましたくない。

とはいうものの、論文を読む時はある程度まとまったストーリのほうが楽しいわけで、自分勝手なものだと思う。今、精神的に悪い相なので、はてなダイアリの下書きに眠っていた断片を繋ぎあわせてまとめた。文章が荒れているので、そのうち改訂する。

*1:粒度というのは、私が勝手にコンピュータの世界から転用した言葉