私が実験科学から脱落した3つの生物学的要因

「下書き」に2年近く眠っていた記事を一気に放出。本記事はそれなりにまとまっているが、本日の他の投稿は全て未完。

はじめに

私は、何度も書いているように予期不安が強い。それに加えて不注意である。私が実験科学から脱落した一因はこういう生物学的特性にあると思われるので、それについて語ってみる。

先日の記事を、私が実験が大好きだったが諸事情で挫折した、本当は実験がしたくてたまらないというように読んだ方もいるようだが、今の私は、実験には懲り懲りという気持ちである。新技術が出ると、一度自分の手で試してみたいという野次馬根性はあるが、「実験大好き」からは程遠い。

その前に一言。勝手な自己診断で「私は◯◯だから、◯◯なんです」といった表現を免罪符のように使う人がいて、そういう人を批判する風潮がある。なるほど、都合のよい時だけ「私は◯◯だから仕方がない。許してね、てへぺろ☆」とやられたら腹が立って当然である。しかし、自分にはある傾向があるから、あるタスクに向く/向かないという自己分析をしたり、ある種の環境や人々の元では互いに不幸になる可能性が高いというのを把握して、事前に避ける努力をすることは有意義ではなかろうか。そもそもヒトの特性の多くは、病的〜変わり者〜標準的と連続的なスペクトルになっているというのが最近の理解であって、どこかに線を引いて区別することはあまり意味がないのである。なお私自身は、精神科医臨床心理士から同じようなことを言われており、以下に書くのは勝手な自己分析ではない。

1. 実験が不安でたまらない

本題に入る。数十のステップがあって、どこが不適切でもアウト。だが各ステップが正しいのかどうかは、全部終わらないと分からない。こういう実験が辛かった。もちろん、陽性対照陰性対照を設定することで、ステップごとに成否を確認する努力はしている。だが、最後まで行かないと分からない実験系というのは、どうしても存在する。一週間かけて酵母を 10 リットル培養して、一週間かけてそこから膜蛋白質を精製して、なけなしの 1 mg を遠心機に何時間もつきっきりで濃縮したら 30 uL しかなくて、しかも結晶化をセットアップしようとしたら、界面活性剤も濃くなっていて泡だらけになって、ピペットマンで全然吸えなかった、はい残念! みたいなのは、話を聞くだけでも心が痛むし、そういう事態への不安感が強くなりすぎて、まったく実験できなくなってしまった。

まず第一に、やりたくない。怖い。何日も時間をかけたこと、高価な試薬を使ってやってきたことが、無駄になるのが恐ろしい。そう思うと、手足がすくんで、何もできなくなる。次に、私よりも上手な人がやったほうが成功率が高い。実験予算だって限られているのだから、有効に使うためにも、成功しやすい人がやるべきである。そのほうが速く実験が進む。競争に勝てる。リソースの有効活用だ。こういう(屁)理屈を考えて逃避するようになった。

誤解を防ぐために書くが、失敗して研究が遅れ、ライバルのラボに先を越されて論文化できず、学位が取れないといった事態を考えて不安がっているのではない。そんなことはどうでもいい。もっと単純に、失敗するのが辛いのだ。1つ 4000 円位する濃縮フィルタとかが無駄になったと思うと、それに対して申し訳ないような、いたたまれなさを感じる。条件スクリーニングにおける negative result は、適切な条件を絞り込む上で役に立つので本当は「無駄」ではないのだが、それでも、どんな条件を試すか、自分が判断するのが苦しかった。

これは日常生活でも言えることで、「このズボンを今日洗濯しようか、それとも、もうちょっと履いてからにしようか」という判断をするのが負担である。あまりに頻繁に洗濯すると生地の痛みが早くなるし、かといって汚いまま履いているのも望ましくない。こういうトレードオフから生じる葛藤が苦しい。N 回履いたら洗濯すべし、という判断基準を誰かが作ってくれると助かるのだが。

2. 不注意な自分が信用できない

WAIS の結果によると、私はワーキングメモリが人より少ないらしい。その上、信頼性が低い。3桁かける3桁の筆算をすると頻繁に間違える。高校の頃、化学が得意なのに得点に繋がらなかったのはそのせいだ。「繰り上がりなどを省略せずにちゃんと書け」などと指導するが、そのくらいで治るような生やさしいものではない。私は、自分のアタマの中でビットが化けると思っている。2 と書いてあるのに、認識のなかで 4 に変わる。2 * 2 = 4 という連想があって、それが無意識のうちに呼び起こされて、置き換えられてしまうのだ。「繰り上がりの処理をした」というフラグが消えて、繰り上がりを2回おこなったりもする。数学や物理では、v_1, v_2 といった添字がよく化ける。1 と i が似ているから視覚的に取り違える、というものではない。

そういう自分だから、実験中に不安になることは頻繁である。「このエッペン(ドルフチューブ)は酵素入れたかな?」、「あれ、今、ピペットの数字、直したっけ?」 もちろん、チューブ立てに規則的に並べて、試薬を入れ終わったものは一段ずらすとか、実験ノートに入れたものから順に印をつけていくといった対策はしている。それでも、不安だし、実際ミスが起きるのである。

もちろん、いくら私が不注意だからって、そう頻繁に入れ間違えたり取り違えを起こすわけがない。平均的な実験者に比べると頻度は高いだろうが、それでもたかが知れている。予期不安の大変なところは、理性の上でいくら不合理だと分かっていても、不安が消えないことである。「さっき間違えたかもしれない」という不安がいったん生じるや、その不安はどんどん大きくなっていって、次の操作を進めようという気持ちを挫いてしまう。こちらのほうが辛い。

だから、私は robust (頑強)でない実験系は嫌いである。

例えば、DNA ワークを考えてみよう。50 ul の系で DNA を制限酵素処理するとして、制限酵素を 1 ul 入れるべきところ、ピペット操作の不手際や勘違いで 2 uL 入れたとしても、まあ大抵は大丈夫。FSEC (蛍光ゲルろ過クロマトグラフィー)によって蛋白質の安定性を評価するのも、見るのは void peak とモノのピークの相対的な高さの違いだから、全体量がズレても害はない。一方、定量的実験、たとえば放射性同位元素を使った基質結合アッセイで、サンプルを 1 uL 入れるべきところに 2 uL 入れたら、結果が 2 倍変わってしまう。こういうのはダメだ。私は自分の目も指先も信用していない。もちろん、サンプルを希釈して大容量の系で実験することで誤差を減らすといった工夫が可能な場合もあるが、そうでない系も多い。

工夫しても残る不確かさ

九州大学中川敬一教授のWebサイト中にある「教授からのメッセージ」によると、

このときに論理の基盤や実験結果の信頼性があやふやだと、不安定な土台の上に積み木を積んでいる如く、いずれ崩壊してしまいそうでいつも不安です。特に大学院生時代は技術的にも自分に自信が持てないため、どんな結果が出てもなかなかそれを信じることができないものです。この不安と自信のなさが研究の面白さを失わせる大きな要因です。

http://www.bioreg.kyushu-u.ac.jp/saibou/qanda.html#p5

だそうである。それを見ると、上で書いたような不安は誰でも感じるものらしい。だが、私はもともと「予期不安が強い」という傾向があったこと、他にもストレス要因が多かったこと、実験の性質上、対照実験を設定しにくいといった事情があり、うまく乗り越えられなかった。

引用元には、この不安への対処法が続くので、ぜひ読んでいただきたい。ただ、遺伝子ノックアウトやウェスタン・ブロットなどの既に確立した実験手法を使い、「どの遺伝子をKOした時のどの遺伝子の発現を解析するか」といった注目先で勝負するタイプの研究と、まったく精製法が分からない蛋白質の結晶化を目指すとか、マウスの脳に微小電極を埋め込んで活動電位を読み出すとか、実験手法そのものを開発するような研究では、性質が違うということを指摘しておきたい。前者ならば、ひと通りの手技を徹底的に訓練し習得することでルーチン化し(あるいは技術員に委託し)、知的勝負の部分にアタマを集中できるかもしれない。後者では、手技そのものが針の穴に糸を通すようなものであって、知的勝負と手技が不可分なのである。

成功体験で克服する

本来、この手の不安は、成功体験の繰り返しによって乗り越えられるのだと思う。私にもそういう経験がある。自分のプロジェクトではじめて結晶が出たときの事だ。96穴プレートでのスクリーニングで、ヒットした条件は1つだけ。次に再現がとれるかどうか分からない(再現性が取れないというと「それでいいの?」と思われるかもしれないが、結晶化ではよくあることだ。数千個に1つの回折能の高い結晶からデータを取って論文化する、ということもしばしばある。データの妥当性は、精密化の統計値が保証する)。それで、講師の先生に拾ってもらった。幸い、条件展開でも結晶が出た。いくつかのウェルで結晶が出たが、一番綺麗なのは1条件だけ。これも拾ってもらおうとしたら、「もう自分でやりなよ」と少し強く言われた。それで泣きそうになりながら、はじめてループを持って拾ったら、うまく行った。それ以来、結晶を拾うのは苦痛ではなくなった。つまり、成功体験によって不安を克服できたわけだ。――もちろん、本当に貴重な結晶だったら逃げ腰になると思うけど。

教育的には、リゾチームのような安価で取り扱い容易なモデル蛋白質で結晶を量産して、それで練習をすべきだろう。蛋白質の精製だって、いきなりヒト由来膜蛋白質なんて超高難度ターゲットをやらないで、TEV の精製あたりから始めれば良かったかもしれない。これは不安障害の治療法からみても妥当である。段階的暴露法というのがある。いきなり不安そのものと対峙したら潰れてしまうから、簡単な課題から少しずつ乗り越えて、自信をつけていくということだ。残念ながら、私はそのラボの最初の学生で、周りもそういう教育的なノウハウを持っていなかった。

3. 予定変更が辛い

実験は、実験装置とか時間といった「現実世界の都合」に束縛される。

超遠心機やクロマトグラフィーといった装置の予約はほとんど全部埋まっている。ここで、前の人の実験が少し長引いて、18 時に終わるはずの予定が 20 時までかかる、などとなると、パニックになる。1つは、「90 分可溶化して次のステップへ」と計画していたのが、180 分になって、実験結果に影響しないかという心配。もう一つは、「生協で夕食を食べて、スーパーに寄って買い物をして……」と計画していたのがぐちゃぐちゃになったことへの混乱。20 時にはスーパーが閉まってしまう! 私は、毎日 18 時に生協に行くとか、金曜日にはスーパーに行って週末の分の朝食を買うといったルーチンを学部1年の時からずっと続けていて、そういうのを予告なく乱されることが耐えがたかった。これがさらに予定が狂って、週末来ないつもりだったのに、週末にも作業が必要とかになったら、もう我慢がならない。

だから dry にいきました

まあ、そういうわけで、実験科学は自分に向いていないと痛感し、dry (in silico) 、つまりコンピュータ上の世界に移った(逃避した)のである。

コンピュータの良い所は、いくらでもバックアップが取れること・何度でもやり直せること・何が起こっているのか解析できることである。「やばっ、間違えたかも」と思ったら、コマンドのログを見れば確認できる。ログが残っていないなら、念のため、もう一度実行しなおせばいい。「間違えたかもしれないなあ、でも、間違えていなかったとすれば、今までやってきた分を無駄にするのも惜しいし、一応進めておくか」といって、暗澹たる気持ちのまま実験を進める必要もない。条件をスクリーニングをしても、サンプルが尽きることはない。作業はいつでも止めることができる。生物系の実験のように、ここからここまでは中断なく、指定された時間どおりに進めなければならないということもない。自分のリズムで作業できるし、泣く泣くセミナーの出席を諦める必要もない。作業に飽きて、他のプロジェクトに手を出していても、腐ってしまうことはない。気分が戻ってきたときに、いつでも再開できる。だから、進めた分が無駄になることがない。

もちろん、程度問題である。自分の書いたコードの正当性を検証するのは実際には難しいし(とくに数値計算)、いつまでも放っておけば、新規性という意味で値打ちがなくなってしまうことはありうる。それでも、wet より dry のほうが、私はずっと楽しく取り組むことができる。