アタマと手

先日 Twitter で、実験科学はアタマを使わないのではないか――という発言があって、賛否両論を呼んでいた。それについて私の考えとして発言したことをまとめておく。

もちろん実験科学でもアタマを使う。しかし、アタマがいくら働いていても手を動かさないと何も進まない。手を動かすのがおっくうな者には絶対に向かない。一方、手を動かすのは好きだが自分で考えるのが嫌いであり、他人のアタマに従うだけになっている人も結構いる。業績を見ただけでは本人がアタマを使ったのか判別できぬ場合も多い。本当はアタマと手の両方が優れているのが良いが、なかなか難しい。

実験科学におけるアタマの使い方にもいくつかの方向性がある。何を調べることに意義があって、どうアプローチしたら解決できそうか考える戦略面でのアタマの使い方と、20度でなくて16度で反応させたら改善しないかなと閃く戦術面でのアタマだ。

戦術面でのアタマの使い方がすごく優れているが戦略面でのアタマはイマイチという人は、独立して PI になるのには向いていないだろうが、高度専門技術者としては抜群であろう。そういう人もまた研究に不可欠であるが、正当に評価されていない気がする。逆に優れた着想を持っていても、戦術面でのアタマやそれを実行する手が伴わなければ、成果に繋がりにくい。本当は、理論物理学者と実験物理学者の共同研究のように、「こんなアイデアがあります、誰かやってください」という人と、「よっしゃ、やったるぜ」という人がうまく結びつき、双方の貢献が評価されるようになればよいのだが、生物や化学の分野では難しそうである。

エンジニアの世界では、フルスタックエンジニアなる存在が要求されているらしい(例えば、35歳定年説より怖いフルスタックエンジニアしか生残れない未来とは - paiza開発日誌 を読んだ)。構造生物学分野でも、自分で面白いテーマを発掘して、予算をとって、蛋白質を発現・精製・結晶化して、NMR や電顕も組み合わせて構造解析し、分子動力学計算もできて、もちろん生化学実験もして、最後に論文をまとめられる「フルスタック」が求められている(Nature "Structural biology: More than a crystallographer", 2014)。私は、そんなことに興味はないし能力もないので、あえて時代に逆行し、回折画像から原子座標までの間だけに専念する。電顕やシミュレーションは興味深いが、当面は趣味的な学習どまりだろう。

なお、この手の話題への反応は(英語の社内公用語化もそうだが)、「そんなことになったら自分の職がなくなるからやめてくれ!」という本音が見えるものが多くてうんざりする。職があろうがなかろうが、自分のできることをやり、それで用無しと言われたら、諦めて首を吊るしかないのである。