科学と宗教

「科学と宗教」なんて大仰なタイトルをでっち上げたが、私的な体験談である。言うまでもないことだが、特定の宗教を云々するのが目的ではなく、新しい考え方に触れて自分はこう考えた、という記録を残すのが目的である。

なお後で調べて知ったのだが、ここに書いた「友人」の考えは、ニュートンを含め多くの科学者が持っている/いた考え方らしい(例えば Wikipedia の「科学と宗教」を参照せよ)。だから何も新しくないのだが、自分が直接討論しながら知った考えを自分の言葉で表現しておくのも有益だろうと思う。

英国にいると、宗教活動に熱心な学生をよく見かける。日本の大学で宗教系サークルというと怪しげなカルトがすぐ連想されるが、こちらでは必ずしもそうではない。そもそも中世の修道士養成施設に由来するカレッジが多いし、20世紀に設立されたものも含めて大半のカレッジには礼拝堂が併設されている。カレッジの地図には、最寄りのスーパーや病院と並んで、宗教・宗派ごとに教会や寺院が紹介されている。宗教は生活の一部であって、決して特別なものではないのだろう。宗教系サークルについても、同じ信仰を持つもの同士、日本でいう「県人会」に近いニュアンスで親睦を深めているという印象だ。また、信仰とは関係なく、新入生のために街案内やお茶会などのイベントを行なっていたりする。私もいくつか参加したが、布教を目的とするのではなく、純粋に慈善・奉仕活動として行なっているように感じられた。もちろん、それ以降も付き合ったら勧誘を始めるのかもしれないが……

そういう会で出会った上級生の一人は、私と専門分野(構造生物学)が近いこともあり、研究の話をするうちにすぐに親しくなった。そしていつの間にか、「君は神を信じるか」という話を振ってきた。私はこう答えた――誰でも他人の行動や言葉に感銘を受けて自分の生き方の参考にすることがあるはずだ。それと同じ意味で、いろいろな宗教の教えを参考にすることはある。それから、善悪・生死といった人類共通の大問題に対して各宗教がどのようなアプローチを取って、どういう答えを提示しているか比較検討するのも興味深い。アニミズム的な世界観を以って自然や物質にも人格があると考えると、何か楽しく生活に彩りが生まれるような気がする、要するに萌える。だが、盲目的・絶対的に信じている宗教はない。つまり私は、宗教とか神というのは、人間が作り出した思想・文化に過ぎないという立場なのだ。

彼自身も多神教的な文化の出身であった。しかし今の彼に言わせると、そこでの神々は「人間が考えだしたもの」である。一方、彼が今信仰している一神教の「神」は、人間が創りだしたものではない絶対的な最上位の神らしい。その他の神は、「そういう概念を生み出すように、『絶対神』が人間を設計した」という。私が、その「絶対神」も人間が作り出した概念ではないのかと尋ねると、「どんな人でも、完全無欠・絶対的な神に対する憧憬・渇望(近づきたい・理解したいという衝動)を魂に a priori に持っている。それこそが、人間から独立して『絶対神』がいることの証明である」と言った。私はそのような衝動を持っていないので、その証明は受け入れがたいと答えた。脳の器質的損傷で信心深い人がそうでなくなったり、側頭葉癲癇の発作などで宗教的体験をするという例を引いて、そのような感覚が脳に由来するものだと主張した。すると彼は不思議そうな顔をして、別の論拠を持ちだした。

彼の説を要約すると、(1) 研究を進めて自然の理解が深まれば深まるほど、自然界の諸々が実に巧妙にできていることに驚かされる (2) これほど素晴らしいものが偶然だけで勝手にできるはずはない (3) だから創造主たる神は存在するのだ、となる。進化論については認めるという。だが、偶然による変異が自然淘汰を受けるだけで、これほどのものができるとは到底思えない。「偶然を制御する」ようなメカニズムとして、神は介入したのだろうという。

実はこれは、科学的にもありうる仮説ではある。私は過去にSF小説のネタとして、既知の物理法則と極力矛盾しないように「魔法」を導入するにはどんな設定をすればいいのか考えたことがあり、それは偶然をコントロールすることだという結論に達していた。例えば、何もないところからエネルギーを取り出すのはエネルギー保存則に反するから困る。そこで、例えば空気中の分子の熱運動エネルギーを少しずつもらってきてエネルギーを取り出せばいい。だが今度はエントロピー増大の法則が問題となる。しかし実は抜け道があって、マクスウェルの悪魔パラドックスとも関係する話だが、「この世界」に関する情報を「この世界」の外側と無償でやりとりする方法があれば、エントロピー増大の法則を破ることは可能なのである*1。神が文字通り「全知」であれば、エネルギー保存則を破ることなく、ミクロな状態を操作してマクロ的には到底起こりそうもないような偶然を引き起こすことができるだろう。

というわけで、一概にオカルトと切って捨てることもできない考えなのだが、オッカムの剃刀の原則には反している。つまり、神の存在を仮定しなくても説明がつくこと、あるいは今は未解決でも将来的には説明される可能性が高いことに、わざわざ神を持ちださなくとも良いではないか、と私は感じてしまう。そもそも、何でもかんでも「神がそうしたから、そうなっている」と神のせいにするのであれば、物事の理由と追求するという科学の動機はどうなるのだろうか。

そこで私は質問した。「あなたは実験科学者として蛋白質が働く仕組みを研究しているわけだが、あなたの研究対象の蛋白質がそういう働きをするのも『神がそうしたからだ』と答えれば、それで終わってしまうではないか。あなたの信仰と研究意欲は、どう両立しているのか?」答えはこうだった――「科学を通じて、神の御技の完全さを知る」

なるほど、と思った。たしかに矛盾しない。

そして、こうも思った。私にとって、科学は一時期「宗教」だったのかもしれない。上に書いた「完全無欠・絶対的な神に対する憧憬・渇望」を私は持っていないが、この世界における、ありとあらゆる自然現象の「完全無欠・絶対的な理解」をしたいという衝動を私は持っていた。それは、不確実で不幸に満ちた「人の世」を超越した、崇高で安定した理論への渇望だった。

だが、今は必ずしもそうではない。科学への信仰は、私の精神状態と同期するようにゆらぐ。時には絶対的な権威であるように感じられるが、時には科学さえも私を救ってくれないような気がするのだ。それについて、今後書いていきたい。

*1:例えば、田崎先生の日記の 2011/6/25 の記述 を見られたし