京都について―聖地としての面から

9年半を過ごした京都という町について何かを書いてみたくなった。今も京都大学に籍が残っているとはいえ渡英するにあたって下宿を引き払ってしまったから、既に京都に私の居場所はない。そう書くと、イギリスの住居探しと違って京都には下宿屋も物件もいくらでもあって、インターネットで簡単に契約できるのだから、何を大げさな――と反論されそうである。実際その通りなのだが、私が9年半を過ごした叡電沿いのアパートのあの部屋はもはや私のものではない。そういう意味で、妙に寂しい気持ちになることがある。

私はとくに京都という町に思い入れがあって京都大学に進学したわけではない。京都大学に進学したから、京都に住むことになったというだけだ。高校のとき、大都会「東京」には若干の反感があったし、学力的な問題もあって東京大学は選択肢にはなかった。けれども、積極的に京都を選択したわけでもなかった。

実際に京都に来る前から、京都(大学)には混沌とした「なんでもあり」なイメージ、ネットスラングで言えば「草(w)が生えている」雰囲気を期待していた。Z会の通信教育で京大コースを取っていたのだが、先輩からの応援メッセージが書かれている冊子には不思議な伝説がたくさん書かれていた。カンフォーラの前の防火水槽に「トリビアの泉」という柱が立っているとか、吉田生協の前にドラゴンボールが7つ揃っているとか、入試の時に中庭にコタツを出して受験生応援と称して酒盛りをしている集団がいるとか。こういう空気は今は残念ながら薄れつつあるが、それでも他大学に比べると残っていると思うし、森見登美彦氏のマジック・リアリズム的空想世界の中の京都大学は、現実世界との接点を確かに維持しているのだ。

京都というと観光地であり、風光明媚な土地であるというイメージがあるかもしれぬ。私にとってはそうではない。町並みの保存・歴史との連続性という意味では、中世の趣をそのまま残すヨーロッパの諸都市にはまったくかなわない。路面電車がなくなって久しいし、町家はアパートに建て替えられてゆく。大学構内の建物も耐震工事と称して改築してばかりいるので、ほんの10年前とも風景は大きく異なる。百万遍のレブン書店も今はないのだ。有名な寺院物活にしたところで、見上げれば高層ビルに四方を囲まれ、足元はコンクリート舗装で、風情もあったものではない。そういう意味で、京都の観光名所そのものに対しては、それほど魅力を感じていない。

では、私にとって京都の魅力はなんだったのかというと、その「聖地」性である。アニメの聖地(けいおんたまこまーけっと四畳半神話大系有頂天家族はもちろん、他のアニメの「修学旅行回」でもお馴染みである)というだけではなく、森見登美彦氏を始めとする小説の舞台として、あるいはもっと昔の文豪の旅行記に出てくる場所として、さらには古典文学の現場として。物語に描かれた場所、他の人が体験した風景と、自分の体験が重なってきてはじめて、この場所に魅力と愛着を感じるようになった。

もしかすると、思い出の場所とはそういうものなのかもしれない。5年前に自分がある体験をした場所、それはもう記憶の中の出来事で、物語化されている。その「聖地」を再び訪れるという意味で。

尻切れトンボだが、とりあえず公開した。