動機における他者の存在

以前、何かのために何かをするのは嫌だという話を書いた。自分が何かを学ぶのは、試験に通りたいからでも、手に職をつけるためでもなくて、それ自体が面白いからである。

私は無邪気にそう思い込んできたけれど、ここ2年ほど、時々不純などす黒いものが混ざるのを自覚することがある。承認欲求というやつだ。他の人から褒めてもらいたい、チヤホヤされたいというやつ。それが満たされないと、不機嫌になったり拗ねたりする。

昔はそんなことはなかった。自分のやっていることがどんなに低レベルで他愛もないことでも、素直に楽しんでいられた。下手の横好きというやつだ。遙か彼方の高みにいる「すごい」人たちを見て、彼らのしていること・考えていることを自分も理解できるようになりたいと思うことはあっても、今の自分が低レベルだからつまらないなんて幼稚なことを言ったり、嫉妬することはなかった。とても健全だったのだ。

ーーいや、ちょっと美化しすぎたかな。昔でも、すごい人たちが独自のノウハウを秘匿している(ように感じられる)場合は、嫉妬したり、その輪に入れないことを苦に思ったりした。例えば有機合成をやってる人たちと会話していると、教科書だけでは決して身につかない、「電子の気持ちが分かる」とでもいうようなセンスを持っている感じがして、羨ましく思うとともに、有機合成の訓練を受ける機会のない医学部のカリキュラムを恨んだものだ。それから、「お前は学んで得た知識を開陳してチヤホヤされて喜んでいたじゃないか」という指摘もあろう。それはまさに承認欲求を満たすための行為であって、謙虚とは程遠い態度だけれど、少なくとも、学んでいる瞬間の動機は純粋だったと思う。

今はそうではない。年を取って集中力と瞬発力を失ったこと(##この話も書かないと)、簡単に学べる美味しいところ low-hanging fruits を取り尽くしたこと(##この話も書かないと!)などの理由から、私は新しいことを習得する速度がどんどん低下しているのであるが、ごくたまに興が乗って調子が良い時でも、ふと、「ああ、こんなことをしていても、所詮は素人のお遊びだなあ」とか「くだらないことをしているなあ」と頭に浮かんで、冷めてしまうことが多い。そして、こんなことを考えて手が止まってしまう自分に、ひどく嫌悪感を抱く。

こういうことが起きるようになったのは、大学院以降の価値観の大転換をうまく乗り越えられなくて、大げさな言い方をすれば「自分の居場所を失ってしまった」からかもしれない。学部のうちは、自分が医学部にいることを不自由に感じて、好きにはなれなかったけれど、今から思えば、自然と自分が承認される側にいた気がする。それはとても幸せなことだったのだ。今は、まっとうな、「本来すべきこと」をやり遂げられずに逃げてばかりいるから、代わりに搦め手で攻めて欲求を満たそうとする。でも、そんな簡単にうまく行くはずがない。悪循環になっているだけだ。

マズローの欲求階層を持ち出すまでもなく、承認欲求の出現とその充足というのは、発達過程で誰しも通る道なのだろうけれど、平常より10年近くも遅れてやってきたこの葛藤を、どう片付けていいのか分からない。

学んだことをドヤ顔でひけらかしてチヤホヤされたいから学ぶのか、それ自体が面白いから学ぶのか……私は謙虚にならねばならない! 不純な動機で純粋な楽しみを汚してはならない!!!

#適度なポジティブ・フィードバックが学習意欲を高めることまで否定されるべきか、考察すべし