2024-05-08 (Wed)

今日は気温が低く、昼でも 19 度、帰宅時には 13 度くらいだったようだ。それでも、朝、16 度程度と気温は低いものの日差しは強くて、季節が進んでいることは感じられた。

iPad の CM とメカ娘小説の残酷描写について

PC watch "巨大プレス機を使った新 iPad Pro 広告、「ひどい」など批判の声" で報道されているように、楽器などがプレス機に破壊されて iPad に置き換わる CM が話題になっている。この映像に対して発狂しているのが主に日本人であるという主張が本当なのかどうか気になる。

実際に見てみたら、思ったよりもグロかった。アンドロイドやロボットが破壊される小説は普段からわりと平気で読むのに、この映像は精神的にキツかったので、それがなぜなのか考えている。SNS 上でも、他の破壊動画は平気なのに、なぜこの広告に反感を抱くのか自分でも分からないといった発言が散見される(例: 1, 2)。とりはロボットが破壊される SF 小説を日常的に読んでいて、わりと平気な場合が多いけど、たまにそうじゃないのもあって、自分の中のラインがどこにあるのか、いまいち把握できていない。先日も Pixiv で、かなり残酷で救いのないメカ娘 SS を読んでしまって、後味が非常に悪い一方、妙にその世界観が気になってしまって、そのことばかり考えている。メカ娘に限らず登場人物が酷い目にあう物語では、酷いことをされても作中世界でそれが悪いことであると認識されている場合は、最終的に悪者が成敗されなかったとしてもまあアリなんだけど、作中世界ではそれが普通だという価値観だと辛くなりやすいのかなと思ったりもしたが、例外も多い。

この iPad の CM 映像に対してつらさを感じる時、潰される楽器などに感情移入しているケースは少ないと思われるが、楽器に対して思い入れを持っている(映像に映っていない)人の感情を想像して残酷だと感じるのだろうか? これは SF 小説の残酷描写にも関連する重要な論点である。ロボットに人格(的なもの)が最初からない場合、そもそも苦痛を感じる主体が作中に存在しないため、「かわいそう」な「哀れみ」の対象がいなくなってしまうわけで、かえって興を削ぐのではないかという仮説が生じるが、とりが観察するに、そういう作品も人気のようである。

人間の意識をロボットに転写するという展開もよくあるが、成果物は素体となった人物の言動を模したプログラムに過ぎないという設定ではロボットは哲学的ゾンビそのものなので、読者の憐憫の情を惹起することも、逆に読者の嗜虐心を刺激することもできぬように思われるが、実際にはそのような設定の作品群が成功を収めているのが興味深い。この問題はロボットの一人称視点で物語を描写することで解決するが、その場合、読者は自然とロボット側に感情移入することになるから、むしろ被虐趣味のある読者に訴求することになると思われる。本当かどうかは知らぬが、Wikipedia のリョナの項目には、加害ではなく被害者側への感情移入だとある。一方、ロボットの一人称視点を徹底的に(おそらく意図的に)出さない作品も多数あり、それがどのように受容されているのか、作者や読者の声を聞きたいものである。哲学的ゾンビが動いているだけという、いわば事が果てた後の空隙から不可逆的に喪失されたものを想起してあわれを感じる、「夏草や兵どもが夢の跡」的構成なのだろうか。

ロボットのパラメータを編集して人格や感情を改変したり削除してしまうような展開において、改変や削除が行われるまでの恐怖や抵抗の描写と、すっかり変わってしまった虚ろで無抵抗な事後の描写とで、どちらに重きが置かれているかを比較することでも、興味深い分析ができるかもしれない。

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