何かのために何かをする

「下書き」放出第2段。

中島敦の「かめれおん日記」は、ほんの数カ月前に出会ったばかりの作品だが、まるで自分のことが書いてあるかのように心に染みいる。青空文庫から引用しよう:

又、ものを一つの系列――或る目的へと向つて排列された一つの順序――として理解する能力が私には無い。一つ一つをそれ/″\獨立したものとして取上げて了ふ。一日なら一日を、將來の或る計畫のための一日として考へることが出來ない。それ自身の獨立した價値をもつた一日でなければ承知できないのだ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card24443.html

すごく分かる。私も何かのために、それ自身は面白くないことを、あたかも面白いかのように心血注いで取り組むことができない。

端的な例を取ると、試験勉強。「試験に通らないといけないので勉強する」ことができない。幸い、勉強それ自体が面白いから勉強をし、その自然な結果として試験に通るというふうにして、これまで過ごしてこれた。そう言うと、「試験のためでなくて、自主的に勉強するとは大変結構なことじゃないか」と褒められることはあっても、批判されることは少ない。それで学部時代はすっかりいい気になっていた。それどころか、いま告白するが、試験のため・就職のために勉強する同級生を、冷笑的に見下してさえいたのだ。

今でも、学問はそれ自体のために行われるべきで、何かのためにされるべきではないという思いを捨てきれない。例えば、「生物学者は◯◯(化学・プログラミング・数学など)も学ぶべきか」という質問は嫌いで、「すべきだからする」のではなくて、面白そうだからやる、ブラックボックスの中身が知りたいから学んでみるくらいでないと、結局ダメだなあと思う。「これからの時代、◯◯も知ってないと生き残れないですか? 知ってたほうが有利ですか?」とか「出身者の生存率を上げるために我が学部でも◯◯を課程に組み込むべきか」といった意図は、質問者にとっては切実であり、尊重されるべき真摯なものだと理屈では分かっているのだが、それでも「嫌だなあ」と感じてしまう自分がいる。(そして、こういう文章を公開するから波風が立つのだ……)

あるいは「特に面白いと思っているわけではないが、この分野は予算が取れて有名誌に載りやすいから研究している」とか「研究予算を獲得しつづけるために、この大型プロジェクトを回し続けないとダメだ」などと公言して憚らない研究者を見ると、「ああ嫌だ」と思ってしまう。本人の動機がなんであれ、成果が上がっていれば科学としては大成功であるというのに。

そもそも、「嫌なことでもやらねばならぬ」のが大人の世界であり、そこから逃げ出し続けている私に彼らを軽蔑する資格は全くないのだ。「それ自体 per se 以外のためにやる」というのは、志が低いとか、現実に迎合したなどと見下されるべきことではなく、それはそれで現実を見据えた立派な努力だったのだ……。それを分かったうえで、嫌なこと・興味を持てないことから逃げ出しているという罪悪感があるから、私は攻撃的・排他的ともいえる嫌悪感を覚えてしまうのだろう。

「(本当は興味がないけれど)◯◯のために必要だから××をやってます」という学生や研究者と、「××自体が楽しい」からやっている私は、おそらく親しくなることはできない。しかし、少なくとも、彼らを見下すような高慢な気持ちを自分から消去したい。本当は、他人の意図を考えず(考えたって分かるはずがないのだもの、考えて悩むだけ無駄)、外に表された結果だけを見たほうが精神衛生上よいことは既に分かっているのだ。