長らく「下書き」に眠っていた文章を公開しておこう。中二病的内容につき、注意!
今(2013/10/27)は、留学によるテンションの高さでカバーしているが、本質的には一週間前ほどからやや悪い相が始まっている。
専門家に言わせると、私の問題の本質は強迫性だそうである。予期不安が強いので不安障害に属するのだろうと思っていたので、いささか意外であった。
予期不安とは、先の未確定なことに対する「こうなったらどうしよう」という不安である。何も珍しい話ではない。列子に、天が崩れてきたらどうしようと不安がった人のことが出ていて、杞憂という言葉の語源になっているくらいだ。私は小学生の時にあまりに不安がるので、父親からこの字を紙に書いて渡され、「辞書で調べてみなさい」と言われたのを覚えている。
先日、Twitter で
試験のイメージ。司法書士試験は「廊下を走ってはいけない」という規定を知っているかどうかが問われる。司法試験は「廊下を走ってはいけない」という規定を前提に、廊下で踊っている奴がいるときにどうするかを問われる。
これまた Twitter で、
法も推論規則定めて公理から始めるべき
現実にはいろいろなことが「非論理的」に動いていることを知るにつれて、「ああ、もうだめだ」「全てがどうしようもない」という思いを抱いた。高校生くらいの頃だ。倫理学の授業で、近代日本人の個人主義への期待と絶望(森鴎外の「諦念」、夏目漱石の「則天去私」など)を習って、感情移入したりした。正確に「公理と推論規則」を設定できなくとも、「なんとなく」下す自分の判断が世間一般と大きくズレていなければ、日常生活を営むのに問題はなかろう。けれども、私はそうではなかった。私にとって自然な判断が非常識とされるものであったり、逆に、世間で日常的に行われていることが、私にとっては不正義であり義憤を感じるような出来事だったりした。新聞の投書欄などで文化の対立(例えば都会人が田舎に引っ越してきて周りとうまく行かずに揉めているとか)を見るにつけ、どんどん厭世的な閉塞感と、予期不安だけが増大していった。
精神の安定を図るには、逃げ出すしかなかった。つまり、私はこういう事柄には関わるのはまるで向いていないからやめようと決心した。ニュースや社会問題になるべく触れない、なるべく考えない。人間の恣意的な価値観を離れて、観測結果と一致するかどうかという絶対的基準の存在する科学に没頭した。価値観依存的な事柄に対して、「個人的にはこう思う」までは言うとしても(本当は言わないほうが平穏なのは分かっていても、つい言ってしまうことがある)、「こうしようぜ」と他の人に働きかける活動は厳に慎むことにした。怒りを感じたり悲哀を感じることがあっても、それは私の価値観と他者の価値観が一致しないがために生じる「現象」に過ぎないと考え、感情を極力排除しようとした。特に怒りに対しては、相手の悪意を想定しないという手法が、ある程度の精神安定効果をもたらすことを発見した。
以前、サンデル教授の倫理学講義(NHKの「白熱教室」)が流行した。ああいう問題を机上の理論として考えるのは大好きだが、現実世界において、何かを選択しなければならないというのがすごく嫌だ。何かをすべきかせざるべきかという場面で選択を保留すれば、「しない」方を選んだのと同じ事になってしまう。時間は止まらない。世界は1つしかない。これが全ての不幸の原因だというのが、私の基本信条である。
#「不幸の原因」について詳しく
#「科学」にも裏切られた話
# 諦めているから「もう何も怖くない」